【真田昌幸】天文16年(1547年)~慶長16年(1611年)享年64歳
武田勢において屈指の知将であった真田幸隆(幸綱)の三男として生まれた昌幸(幼名、源五郎)は、幼少の頃よりその才能を見出され奥近習衆(信玄の側近中の側近)に抜擢され英才教育を受けます。城攻めや調略を得意とし「攻め弾正」と称された父、幸隆の血を受け継ぎ、「甲斐の虎」と恐れられ戦国最強とも呼ばれた信玄に身近に仕えた経験は、その後の昌幸に大きな影響を与えた事は間違いありません。
元服後は武田家の家臣団に加わり数々の武勲を立て、その働きは信玄をして「我が両眼の如し」と言わしめたといわれています。その後、父、幸隆がこの世を去り、次いで嫡男の信綱、次男の昌輝が「長篠の戦い」で討ち死にした為、昌幸が真田家の家督を継ぐ事になります。
武田家滅亡後には織田信長の軍門に下りますが、本能寺の変で信長が没すると近隣の国衆をまとめ上げ自立します。ですが、周りを上杉、北条、徳川といった大国に囲まれた自領を守り抜くのは容易な事ではなく、昌幸は情勢によってその都度、上杉家、北条家、徳川家に従属と離反を繰り返す事となります。
徳川家に従属時、家康は北条家と和睦を結ぶ為、昌幸が領有していた沼田、吾妻領を北条家に引き渡すよう求めますが、昌幸はこの地は自力で手に入れたものであって徳川に与えられたものではないと拒否し、家康と手を切り敵対関係にあった上杉家への従属を決断します。
昌幸の造反を知った家康は真田討伐を決行。家臣の鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ら7000(※1万ともいわれています)の兵をもって昌幸の居城である上田城攻略にあたらせますが、昌幸はわずか約2000の兵力でこれを撃退し大勝利を収めます。世に言う「第一次上田合戦」です。
第一次上田合戦
数で劣る昌幸は、まず上田城近くを流れる神川に徳川軍が差し掛かったところで奇襲をかけます。不意をつかれた徳川軍は混乱しますが、それを撃退し上田城へ向かって敗走する真田軍に追撃をかけます。上田城に攻め寄せた徳川軍は勢いに乗って二の丸まで進みますが、これは昌幸の仕掛けた罠であり、徳川軍はまんまと誘い込まれてしまったのです。
城門を破ろうとする徳川軍に対して真田軍は一気に反撃に転じ、頭上から巨石や丸太を落とし、鉄砲や矢で一斉射撃を加えます。不意打ちにあった徳川軍は大混乱に陥り逃げ出しますが、ここぞとばかりに昌幸は城門を開いて徳川軍を追撃します。たまらず逃げ惑う徳川軍ですが城下に張り巡らされた「千鳥掛け」の柵に阻まれ自由に身動きが取れません。しかも城下には火が放たれており視界が利かず、さらにそこへ伏兵が急襲、総崩れとなった徳川軍は次々に討ち取られます。
這う這うの体で神川まで退却した徳川軍に今度は濁流が襲いかかります。昌幸が上流の堰を決壊させたのです。これにより多くの兵が濁流に飲み込まれ溺死し、勝敗は決します。徳川側が1300人もの死傷者を出したのに対し、真田勢はわずか40人にも満たない損害だったといわれています。
こうして圧倒的な兵力差を、地の利と変幻自在の兵法をもって撃砕した昌幸の武名は一躍天下に轟き渡り、独立大名として認知される事となり、秀吉からは「表裏比興の者」と評されました。(※文字通り見れば「裏表のある卑怯者」といった意味になりますが、裏を返せば「狡猾で油断のならない人物」といった意味にも捉えられ、戦国の世においては寧ろ誉め言葉でもあったと思われます。)
関ヶ原の戦い~第二次上田合戦~
その後、昌幸は秀吉に臣従し家康とも和解しますが、秀吉の死去により関ヶ原の戦いが勃発。東軍についた長男の信幸と袂を分かち、次男、信繁と共に西軍についた昌幸は再び徳川と相まみえる事となります。(第二次上田合戦)
結果、徳川の大軍を足止めする事には成功しますが、上田城での勝利もむなしく西軍本体が敗北してしまった為、昌幸と信繁には領地没収と死罪が申し渡されます。
東軍についた信幸とその舅である本多忠勝の嘆願により死罪は免除されましたが昌幸と信繁は九度山へ蟄居の身となり、そこで10年余りを過ごす事になります。昌幸は病気でそのまま無念の死を遂げ、信繁は後に徳川と対立した豊臣家の呼びかけに応じ大坂城へ入城、獅子奮迅の活躍で徳川と最後の戦いを繰り広げる事となります。
ちなみに昌幸、信繁に比べると地味な印象を受けてしまう長男の信幸ですが、父や弟にも決して劣らない文武両道の名将であったといわれています。また実直で家族思いで、関ヶ原の戦いにおいて決別した後も、蟄居の身となった父や弟へ援助を続けたといいます。そして何よりも真田家の存続に貢献した信之は真田家最大の功労者ともいえるかと思います。
昌幸の晩年は日の当たる人生ではありませんでしたが、信濃の小豪族に過ぎなかった身でありながら、周りの大国相手に互角以上に渡り合い大名にまで昇りつめ、天下にその名を知らしめた昌幸の生き様は、今をもって稀代の知将・謀将として語り継がれています。
話は全く変わりますが、大河ドラマ「真田丸」では草刈正雄さんが昌幸を演じられていましたが、曲者で掴みどころのない、まさに表裏比興の者を実に痛快に好演(怪演?)されており、個人的には今後も草刈正雄さんを超える昌幸は出てこないのではないかと思っています。本当に毎回昌幸を見るのが楽しみで仕方ありませんでした。これについては多くの方がそう思われたようで「前半の主役」「もう一人の主役」などの声が多く聞かれ、昌幸が最後を迎えた際には多くのファンから「昌幸ロス」の声があがりました。