関ヶ原の戦いにおける西軍の総大将、毛利輝元。大坂城に入りまったく動かなかった事もあり、一般的には名目上、総大将に担ぎ上げられただけで、徳川との戦いには乗り気ではなく、優柔不断なお飾り大将といった風に思われがちですが、実は非常に積極的な動きを見せており、また、大きな野心を持っていたと思われる節も見受けられます。
そもそも毛利家には「天下の争いに関わってはならぬ」という毛利元就の遺訓があり守られてきました。経緯はどうあれ、それに従わず天下分け目の決戦と呼ばれる大戦の総大将となった輝元に何の野心もなかったとは考えにくいものがあります。
事実、輝元は三成ら三奉行からの上洛依頼の書状を受けとると、その日の内に広島を出立して僅か4日というスピードで大阪城へ入城、また、それに先駆けて輝元の子、秀元が大坂城の西の丸を占拠しています。この様に輝元は実に迅速かつ積極的な動きを見せており、成り行き上、渋々総大将を引き受けたのではなく、予め万全の準備を以て事に当たっていた事が伺えます。
また、大阪城に入ってからも輝元は多くの大名達に西軍への参加を要請する書状を送るなど積極的な動きを見せています。(もっとも後にそれが発覚し、和睦の条件だった所領安堵を反故にされ減封される事になるのですが)
こうして、西軍の総大将として意欲的な姿勢を見せる輝元ですが、三成らが東軍と対峙する関ヶ原方面への目立った行動はなく、四国や九州方面へ積極的に軍を派遣しています。ここからは私見も入るのですが、この行動から察するに、輝元は家康と真っ向から戦う意思はなく、東軍、西軍が睨みあっている間に手薄となった西方面を攻め自領の拡大を図ったのではないかと思われます。
そしてタイミングを見計らって家康と和睦し、日本の東側は家康に支配させ、西側は自分が手中に収めようと目論んでいたのではないでしょうか。しかし、現実には、関ヶ原の戦いは僅か半日という短期間で決着がついてしまった為、輝元は降伏を余儀なくされ、領地の大幅減封という憂き目に遭う事になります。
関ヶ原の戦いのあまりにも早い決着は、幾多の計算違いを生む事になりますが、おそらく輝元も大きく思惑が外れた一人なのではないかと思います。