「浅井畷の戦い」は関ヶ原の戦いの一環で、北陸地方で繰り広げられた東軍の前田利長と西軍の丹羽長重の戦いです。北陸の関ヶ原とも呼ばれています。
西軍の大谷吉継は、東軍に与した利長の動きを封じる為、北陸方面の諸大名に勧誘工作を行い、青木一矩、丹羽長重、山口宗永ら多数の大名達を西軍に引き入れる事に成功します。慶長5年(1600年)7月26日、それに対して利長は、2万5000の軍勢を率いて出陣、丹羽長重の小松城を包囲しました。
小松城側の兵力はわずか3000程度でしたが、小松城は「北陸無双の城郭」と称された堅固な城で、簡単には落とせないと判断した利長は小松城を避け、抑えの兵を残して山口宗永が守る大聖寺城に向かい攻撃を仕掛けます。山口軍は2000程度の兵力ながらもよく戦いましたが、圧倒的な兵力差に敗れ、宗永は自害して果てました。
一方、伏見城の戦いを終えた大谷吉継は北陸に転進、越前敦賀に入り北陸方面に対して対策を講じます。数で勝る前田軍に対して吉継は「上杉景勝が加賀攻めを計画している」「西軍により伏見城が陥落した」「上方は全て西軍により制圧された」「大谷吉継の援軍が向かっている」などといった噂を流し、大いに利長を動揺させます。(※流言の中に事実を織り交ぜる事により、信憑性を高めているところが巧妙です。)
さらに吉継は捕えていた利長の妹婿の中川光重を脅迫し「西軍の大軍が向かっており、また、大谷吉継が海路を渡って利長が留守にしている金沢城を攻めようとしている。海と陸の両方から攻められては窮地に立たされるは必至なので十分注意してください」といった旨の偽書を作らせ利長のもとへ届けさせました。不穏な噂と義弟からの書状に不安にかられた利長は金沢に向かって撤退を始めます。
前田軍の金沢撤退を知った丹羽長重は軍勢を率いて小松城から出撃し、浅井畷で前田軍を待ち伏せしました。8月9日、浅井畷を通った前田軍と丹羽軍が激突、道幅が狭く大軍のメリットを活かすことが出来ない前田軍は地の利を得た丹羽軍に苦戦し多大な被害を受けますが、しんがりを務めた長連龍らの活躍もあって何とか金沢に撤退する事に成功します。
※ちなみに前田利長は前田利家の息子で、丹羽長重は丹羽長秀の息子です。前田家と丹羽家は元々は共に織田家の重臣という間柄であり、奇しくもこの戦いは織田家重臣の二代目対決となったのです。
9月11日、利家は再び美濃に向けて進出し18日に長重は降伏しますが、15日にすでに関ヶ原の戦いの勝敗は決しており、利家は結局、関ヶ原の戦いには参戦出来ずに終わっています。