岐阜城の戦い~信長の後継者、悲運の生涯~

関ヶ原の戦い

「岐阜城の戦い」は関ヶ原の戦いの前哨戦の一つで、西軍の重要拠点であった岐阜城をめぐって東軍、西軍が激突した戦いです。福島正則、池田輝政ら3万5000の兵力に対して、6000の兵をもって岐阜城を守っていたのは信長の孫の織田秀信です。(かつて信長亡き後、清須会議によって一時は織田家当主に担ぎ上げられた三法師。)

秀信の重臣たちは兵力差から籠城を勧めますが秀信は野戦に打って出てあえなく敗退。結局、籠城する事になります。岐阜城は難攻不落の堅固な城として有名でしたが、攻略に参加していた池田輝政が過去に岐阜城の城主を務めており城の構造を熟知していた事もあって、わずか1日で陥落してしまいます。秀信は自害しようとしますが東軍諸侯に説得され降伏。本来なら死罪も免れないところですが、正則が自らの武功と引き換えに助命を歎願した為、出家して高野山に幽居される事となります。

ところが高野山には過去に祖父の信長が行った高野山攻めの怨恨があった為、孫である秀信は陰湿な虐めを受け続ける事になります。5年ほど経って山を下り麓の村で暮らすことになりますがそのわずか20日後に亡くなってしまいます。その事から下山したのは療養の為で死因は病だったとの説もありますが、迫害に耐えかねての自害であったとも言われています。いずれにしても享年26歳、天下人の孫として生まれながら悲運で早すぎる生涯でした。

※岐阜城をあっけなく落とされている事などから、一般的に秀信の武将としての評価は高くありませんが、治めていた岐阜領内で大規模な一揆や騒動が発生したという記録がなく、楽市楽座など信長の政策を踏襲し良政を行っていた形跡等が見受けられます。また、家臣もよくまとまっており、戦においても自ら進んで出馬し、岐阜城攻防戦での岐阜城攻防戦での戦いぶりに福島正則が「さすが信長の嫡孫也」と秀信を称えている記述も残っている事から、決して愚将などではなく一定の力量はあったものと思われます。

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