「大津城の戦い」は関ヶ原の戦いにおける前哨戦の一つで、突如、東軍に寝返り籠城した大津城城主、京極高次と西軍による戦いです。大津城は琵琶湖に面した舟運基地であり、また東海道・中山道・西近江路を束ねる交通における要所であった為、西軍は早急に対処する必要がありました。高次は淀殿の妹(初、常高院)を正室としていた事から、淀殿は使者を遣わして停戦、降伏を求めますが高次はこれを拒否。
西軍は急遽、大津城近くにいた毛利元康(西軍総大将毛利輝元の叔父)を大将に、立花宗茂、筑紫広門ら九州方面の諸大名を中心とした総勢1万5000の大軍をもって大津攻めに当たらせました。京極軍は3000の兵力で大軍を相手に粘り強く奮闘し、7日間の攻防を繰り広げますが遂には力尽き降伏、西軍の勝利に終わりますが、この戦いにより、1万5000の軍勢が関ヶ原の戦いに間に合わないという結果を招いてしまいます。
特に立花宗茂は幾多もの戦場で武勲を立て、その勇猛さから「日本無双」「東の本多忠勝、西の立花宗茂」「立花家の3千は他家の1万に匹敵する」などと称賛された名将で、もし宗茂らが本戦に参加できていたなら少なからず状況は変わっていたであろうともいわれています。(一介の家臣から大名へ異例の出世。関ヶ原に西軍として参戦して改易されながらも、後に旧領に復帰を果たした唯一の大名。こうした事からも、いかに宗茂が優れた人物であったかが窺えます。)
この戦いの殊勲者、京極高次という人物ですが、これだけの働きをしたのですから、さぞかし豪傑かといえばさにあらず、どちらかというと情けない、ついていないといったイメージが浸透している人物です。高次は、室町幕府において重職を担った四職の一つに数えられる名門、京極家の嫡男として生まれましたが、当時の京極家は臣下であった浅井家の下克上により支配権を奪われ、庇護を受けている立場でした。
その後、信長のもとへ人質として送られ、そのまま仕えるようになりますが、本能寺の変で明智光秀が謀反を起こした事により主を失ってしまいます。信長亡き後は、理由は定かではありませんが光秀に加担し秀吉の長浜城を攻めますが、山崎の合戦において光秀が秀吉に討たれてしまい窮地に追いやられます。追われる身となった高次は柴田勝家を頼り身を寄せますが、翌年、今度は勝家が賤ヶ岳の戦いに敗れ滅ぼされてしまいます。
ことごとく与する先を見誤り、2度にわたって秀吉に反した事で高次の命運もここまでかと思われましたが、秀吉の側室となった妹、竜子(※姉との説もあり)の嘆願により許され、秀吉に仕えて大名となります。またその後には、浅井三姉妹の次女、初を正室として迎え、その縁をもって更なる出世を遂げる事となります。(※初の姉、茶々は秀吉の側室で秀頼の母である淀殿、妹の江は後に徳川2代将軍となる秀忠の正室ですので凄いコネです。)
絶体絶命の危機から一転、出世を続ける高次でしたが、いつも女性に助けられていた事から周りからは「蛍大名(妹や妻の尻の七光りで出世した大名)」という不名誉な呼び名で揶揄されました。大津城での奮戦はあるいはそうした事へ対する高次の意地だったのかもしれません。
高次は敗北こそ喫し高野山に蟄居する事になりますが、後に大軍を足止めした功績を家康から高く評価され、大名としての復帰を許されただけでなく石高を加増されています。
このように東軍の勝利に大きく貢献した高次ですが、一般的には知名度が低く、大津城の戦いもあまり知られていません。兵力差や勝敗の違いはありますが、同じ様に大軍の足止めに成功した真田父子の「第二次上田合戦」は後世に名高く語り継がれているので、もっと評価されてもいいとは思いますが、やはり蛍大名のイメージと、裏切りによって貢献したといったところがマイナスポイントになっているのかもしれません。
戦国の世において何を以て勝利とするか考え方は様々ですが、数奇な運命に翻弄され「蛍大名」と呼ばれながらも、結果的には衰退した京極家を再興し、同じ四職の名門であった一色家、山名家、赤松家らが滅亡する中、京極家を存続させた高次の生涯は大勝利と言っても過言ではないのではないでしょうか。