関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い

天下分け目の戦いと呼ばれる「関ヶ原の戦い」は1600年(慶長5年)に美濃国関ヶ原で行われた、石田三成を中心とする西軍と徳川家康が率いる東軍が政権を巡って激突した、両軍合わせて15万人以上もの兵力という戦国最大規模の戦いです。

兵力数だけでいえば、秀吉による「小田原征伐」、「九州平定」が約25万人、家康が豊臣家を滅ぼした「大坂の陣(冬の陣)」が約30万人と、それを上回る合戦もありますが、いずれも圧倒的な兵力差で、権力のアピールや見せしめといった意味合いもあったと考えられますので、純粋に戦力が拮抗した戦いではやはり「関ヶ原の戦い」が最大規模といえるかと思います。

また「関ヶ原の戦い」は主戦場となった関ヶ原以外にも、それに付随した戦いが全国各地で行なわれており、そういった兵力も含めると15万人を遥かに超えた総動員数となり、日本を真っ二つに分けた戦い、後の世を形作るターニングポイントとなった戦い、といった意味でも、最も重要で最も有名な戦いといえます。

以下では「関ヶ原の戦い」の起因~決戦までの流れを紹介させていただきます。
※関ヶ原の戦いには実に様々な説がありますが本文は基本的に通説を元に書かせて頂いております。また、個人的嗜好により西軍寄りで書かせて頂いてもおりますので何卒ご了承ください。

奉行衆と家康の対立

豊臣秀吉の没後、跡継ぎである秀頼がまだ幼い為、五大老と五奉行が実際の政治を行っていきますが、秀吉という大きな柱を失った事により政権内部での対立が表面化していきます。徳川家康が秀吉の遺言を破り大名同士の結婚を行うなど増長の動きを見せた為、石田三成を筆頭とした五奉行との確執が深まり、また、朝鮮出兵時より遺恨のあった加藤清正、福島正則ら武断派との対立も激しさを増していきます。

石田三成襲撃未遂事件

その中、慶長4年(1599年)3月、家康に対抗できる唯一の存在だった、秀吉の盟友であり五大老№2の前田利家が死亡。歯止めをかけられる存在がいなくなった事により、ついに武断派らによる三成襲撃未遂事件にまで発展。それにより三成は謹慎処分となり失脚、家康の権力がますます強くなっていきます。

家康暗殺計画

さらに同年9月には、利家の後を継いで五大老となっていた前田利長、五奉行の浅野長政、豊臣家臣の大野治長、土方雄久らが「家康暗殺計画」を謀ったとの疑いをかけられ、それにより浅野長政らは失脚、利長に対しては討伐(加賀征伐)が布告されます。利長の母、芳春院(まつ、利家の正室)が人質になるなど、前田家が服従する姿勢を示したので討伐は沈静化されますが、この騒動により五奉行は弱体化、前田家は権威を失い、家康の政権の第一人者としての地位が確固たるものになります。(※一説では家康の謀略だったともいわれています。)

会津討伐

慶長5年(1600年)3月、家康は謀反の疑いがあるとして五大老の上杉景勝に上洛を求めます。景勝はこれを拒否、上杉家宰相の直江兼続が挑発的な内容の書状(直江状)を送り返した事により上杉討伐(会津討伐)が決定、6月に家康は大軍を率いて大坂城を出発します。そしてこの出来事が関ヶ原の戦いの幕開けとなります。(※一説では三成を挙兵を誘う為、わざと大阪を手薄にした家康の策略だったともいわれています。)

石田三成の挙兵

家康が出陣し大坂が手薄になったのを機に三成は、盟友の大谷吉継、五奉行の増田長盛と長束正家、豊臣家の重臣の小西行長、毛利家の外交僧、安国寺恵瓊らと打倒家康を画策。五大老である毛利輝元を総大将として迎え入れると諸国の大名に呼びかけ挙兵します。まず、三成は大坂にいる東軍の諸大名の妻子を人質に取り、次に家康が拠点としていた伏見城を攻撃し落城させます。(伏見城の戦い)

小山評定~関ヶ原本戦まで

7月、会津へ進軍中、下野小山の地で三成挙兵の知らせを受けた家康は諸侯を集め、このまま進軍し上杉を討つべきか反転して三成を討つべきか、今後の進退を協議し、その結果、三成討伐が決定します。

※ちなみに真田家も家康の元へ参陣するため進軍していましたが、あとわずかで合流といった地点で三成から挙兵の知らせの書状が届きます。話し合いの末、父、昌幸と次男の信繁(幸村)は西軍につく事を決意し自領に引き返し、長男の信之だけが家康に合流する事となります。(犬伏の別れ)

三成率いる西軍との戦いを決意した家康は、まず北の押さえとして息子の結城秀康を宇都宮城に残し、伊達家と最上家に上杉家への攻撃を依頼。自信は江戸城に戻り、正則ら豊臣恩顧の大名達を先鋒とし東海道を西へ清州城まで進ませます。

一方、西軍では大谷吉継が東軍に与した前田利長を牽制すべく、北陸方面の諸侯を調略し、その多くを西軍に引き入れる事に成功します。利長は2万5000の軍勢を率いて出陣しますが、北陸の西軍諸侯の奮闘や吉継の計略により金沢への撤退を余儀なくされ、後に再び美濃に進出しますが、結局、関ヶ原の戦いには間に合わないという結果に終わっています。(浅井畷の戦い)

家康は江戸城に約1ヶ月留まり、西軍の動向を探ったり各地の大名や武将に手紙を書くなど工作を続けていました。福島正則らは家康の到着を待って岐阜城を攻める予定でしたが、家康出陣の見込みが立たない事から8月、岐阜城攻略を決行します。(岐阜城の戦い)

岐阜城は難攻不落の堅固な城として有名でしたが、攻略に参加していた池田輝政が過去に岐阜城の城主を務めており城の構造を熟知していた事もあって、わずか1日で陥落してしまいます。

岐阜城落城の知らせを聞いた家康はついに江戸から出陣。3万の軍勢を率いて東海道から西に向かい、後の後継者である秀忠には3万8000の軍勢を預け中山道を西に進ませ、東海道と中山道の二方面より進軍しました。家康は9月11日清須城に入り東軍諸侯と合流しますが、秀忠は真田父子に進軍を阻まれ遅れを取り、結果、関ヶ原の戦いに間に合わないという大失態を演じてしまう事となります。(第二次上田合戦)(※諸説あり)

一方、西軍側にも計算外の事態が起こります。近江国大津城城主、京極高次が東軍に寝返り3000の兵をもって籠城したのです。大津城は琵琶湖に面した舟運基地であり、また東海道、中山道、西近江路を束ねる交通における要所でもあった為、急ぎ西軍は毛利元康、立花宗茂、筑紫広門ら1万5000の大軍をもってこの攻略に当たりますが思いのほか苦戦を強いられ、勝利は収めたものの、関ヶ原の戦いに間に合わないという結果を招いてしまいます。(大津城の戦い)

他にも西軍は、「田辺城の戦い」において、小野木重次、前田茂勝、織田信包ら1万5000の大軍が細川幽斎(藤孝)にわずか500の兵で約50日間も釘付けにされ、こちらでも関ヶ原の戦い本戦に間に合わないという失態を見せています。西軍は「大津城の戦い」と「田辺城の戦い」、この二つの籠城戦により3万もの軍勢を関ヶ原の戦いに参戦させる事が出来ませんでした。

秀忠遅延の知らせを受けた家康は秀忠を待つべきか、待たずに決戦すべきか、軍議を行います。意見は割れましたが最終的に即決戦を決意し、9月13日岐阜城に入り翌14日には赤坂に到着します。これについては秀忠はいつ到着するかわからず、その間に毛利輝元が大坂城から出陣してくる、毛利元康、立花宗茂らが大津城を攻略して合流してくる、などといった不測の事態が起こるのを避けたかった為ではないかと思われます。

三成は大垣城で家康を迎え撃つべく西軍を集結させていましたが、家康率いる東軍本隊の到着により西軍の兵に動揺が走ります。これを沈め士気を高めるべく動いたのが島左近(清興)です。左近は自ら手勢を率いて宇喜多家の明石全登らと共に東軍に奇襲を仕掛けて勝利を収め、西軍の士気を高める事に成功します。(杭瀬川の戦い)

その後はしばらく膠着状態が続きますが、突如、小早川秀秋が関ヶ原の松尾山城を護っていた伊藤盛正を追い出し、そこに布陣するという不穏な動きを見せた為、それを警戒した西軍は関ヶ原への移動を余儀なくされます。(※諸説あり)先に関ヶ原へ着陣した大谷吉継は秀秋の裏切りを予期し、松尾山の麓付近に布陣、脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保らを秀秋対策に備えさせます。

一方、西軍の動きを知った東軍も赤坂の陣を引き払い関ヶ原へと進軍、ここに関ヶ原の戦いが決定づけられる事となります。慶長5年(1600年)9月15日、夜明け前に関ヶ原において両軍の布陣が完了。一般的には西軍の方が数の上で勝っていたようにも伝わっていますが、実際は西軍が約8万、東軍が約9万と、東軍の方が多かったようです。(※諸説あり)

関ヶ原の戦い本戦

戦場には早朝から霧が立ち込めており、それが晴れかかった8時すぎに両軍は激突。まずは、家康の四男の松平忠吉とそれを補佐する家康の重鎮、井伊直政が宇喜多隊に攻撃し、戦いの火蓋が切られます。※本来、先陣を任されていたのは福島正則でしたが、直政が物見と称して福島隊を謀り、抜け駆けしたのでした。

※抜け駆けの理由としては、秀忠が遅参した事もあって関ヶ原における東軍の戦力は豊臣恩顧の武将が大半であり、当然、手柄も持っていかれる事になるので、先陣の名誉は身内に取らせ面目を保ちたかったのではないかと考えられており、それを指示したのは家康だったともいわれています。実際、合戦において抜け駆けは禁止行為で処罰の対象でしたが、この件についてはお咎めなしでした。(※諸説あり)

続いて福島正則もただちに宇喜多隊に攻撃を開始し、これを口火に東西両軍が激突。宇喜多隊は先陣を務めていた明石全登の善戦もあり一進一退の攻防が続きます。続いて大谷隊は藤堂高虎、京極高知ら、小西隊は織田長益、古田重勝らと交戦。三成の本隊は黒田長政、細川忠興、加藤嘉明らの猛攻を受けますが、島左近の奮闘により互角以上に渡り合います。しかし左近が黒田長政の鉄砲隊の攻撃により倒れるという不測の事態が起きた事から、後をもう一人の先鋒であった蒲生頼郷が受け継ぎます。

この時点で西軍の中で積極的に戦っていたのは石田隊、宇喜多隊、大谷隊、小西隊とそれらの支隊、合わせて3万人強と総兵力の半数にも満たない数でしたが、西軍は善戦し、東軍と互角の戦いを繰り広げます。

開戦から2時間を過ぎた頃、三成は参戦していない諸侯に対して狼煙を上げて加勢を促しますが、頼りにしていた毛利隊も小早川隊も動く気配がありません。東軍の背後にある南宮山に布陣する毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長宗我部盛親、長束正家らの軍勢約3万が山を駆け下り、家康を挟み撃ちにすれば西軍の優位は間違いありません。三成は秀元に使者を送り参戦を要請しますが、実は吉川広家が家康と内通しており、南宮山勢の行動を妨害していたのです。

秀元は三成の要求に応えて山を下ろうとしますが、先陣の広家が道を塞いで譲らないので前に進む事が出来ません。味方からの再三の出陣要請に対して秀元は、仕方なく「今、兵に弁当を食べさせているので動けない」と苦しい言い訳をして時間を稼いだといわれています。(※この出来事は「宰相殿の空弁当」と揶揄され後世に逸話を残す事となります。)こうした事により、南宮山に布陣した軍勢は最後まで戦いに参加する事はありませんでした。

三成にとって南宮山勢の不参戦は大誤算だったに違いありません。小早川勢は元々不審な点がありましたが、秀元は何といっても西軍総大将、毛利輝元の名代であり、安国寺恵瓊は打倒家康の立案者の一人でもあります。兵力も総勢でいえば主力の宇喜多勢をも上回り、布陣も家康の背後という絶好のポジションです。それが全く機能しないとは夢にも思わなかった事でしょう。

三成は同じく動かない島津義弘、豊久にも使者を送り参戦を求めますが、島津勢はこれを拒否します。(※一説では使者が馬上から要請を行った為、無礼であると激怒したといわれています。)三成は自らも島津の陣営に出向いて参戦の要請を行いますが、豊久は「今日の戦いはそれぞれが勝手に戦えばよい。貴方もそのように心得られよ」と指示に従わない旨を告げられます。(※これはわずかな兵しか率いていなかった島津勢を三成が軽視し、不遇な扱いをした事に対する反発ともいわれています。)

依然として一進一退の攻防が続く両軍でしたが、正午過ぎになって均衡を破る出来事が起こります。開戦より傍観を続けていた小早川隊15000が、突如、西軍を裏切り、雪崩の如く山を駆け下り、藤堂、京極隊と交戦中の大谷隊に突撃したのです。(※これには諸説あり、小早川は開戦直後に裏切ったともいわれています。)当初より秀秋の裏切りを予測していた吉継は、温存していた直属の兵600と戸田勝成、平塚為広の両隊を以てこれを迎撃。圧倒的な兵力差ながらも数度にわたって秀秋の軍勢を500メートル近くも押し返す奮闘を見せます。(※大谷勢の戦いは目覚しく、それを見ていた島津勢の家臣が残した文書には「比類なき様子に候う」と記されています。)

ところが秀秋の裏切りに呼応して、本来は裏切りに備えて配置していたはずの脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保らまでもが一斉に東軍に寝返ります。これには吉継も為す術がなく、周り中を敵に囲まれた大谷勢は孤軍奮闘するも壊滅。戸田勝成、平塚為広らは討ち死に、吉継は自刃して果てます。

大谷勢を撃破した小早川隊ら裏切り勢は、その勢いで他の部隊にも攻撃を開始、西軍は総崩れとなり、関ヶ原の戦いの勝敗は決する事となります。宇喜多隊、小西隊は戦線を維持する事が出来なくなり敗走。最後まで戦っていた石田隊もやがて壊滅状態になり伊吹山方面に逃走します。

戦場に取り残された島津隊は敵中突破による前進退却を敢行。東軍の井伊直政、松平忠吉、本多忠勝らの猛追を「捨て奸(すてがまり)戦法」(※少数の部隊が最後尾に留まり死兵となって足止めし、全滅するとまた新しい部隊がこれを繰り返す必死の戦法)で振り切り脱出に成功しますが、これにより島津豊久は討ち死に、大将の島津義弘が薩摩に帰還した時には80人程の兵しか残っていなかったといわれています。(※この前代未聞の前進する退却は「島津の退き口」と呼ばれ後世に名を残す事となります。)

この壮絶な脱出戦は東軍方にも多大な被害を与えており、本多忠勝は愛馬、三国黒を撃たれ落馬、松平忠吉が負傷、また徳川四天王の井伊直政が銃撃を受け、その傷がもとで1年半後に没しています。

なぜ島津隊が敵中突破を図ったかには諸説ありますが、島津隊が撤退する頃にはすでに他の西軍の将兵達が敗走しており退却路が渋滞していた為、同じ道を辿れば最後尾の島津隊が東軍の猛追に晒される事は必至、それならばと死中に活路を見出したのではないかと思われます。

こうして天下分け目の戦いと呼ばれた「関ヶ原の戦い」は、開始よりわずか6時間で決着。蓋を開けてみれば東軍の圧勝という呆気ない幕切れを迎えます。よく関ヶ原の戦いは、戦う前から勝敗は決まっていたと言われますが、まさしくその通りで、戦前の調略等により本戦では西軍8万対東軍9万と拮抗して見えた兵力も実際には裏切りや傍観により、西軍3万対東軍12万という圧倒的な兵力差での戦いでした。そういった意味では関ヶ原の戦いは事前の水面下での戦いがメインであったとも言えます。

こうした事前の手回しによって家康は本戦での勝利を確信していたとは思われますが、個人的には、実際は紙一重の戦いで家康は内心相当ヒヤヒヤしたのではないかと思っています。戦国の世において、特に戦場において絶対はありません。元々、東軍の主力の大半が豊臣恩顧の大名達であり、また、日和見的な諸侯も多くいた為、戦況次第では反する恐れも拭い切れません。福島正則ら秀吉子飼いの武将達の気が変わったら…小早川秀秋が寝返らなかったら…毛利秀元ら南宮山布陣部隊が山を駆け下り背後から襲ってきたら…気が気じゃなかったのではないでしょうか。

こういった事からも家康が絶対に安心できたのは身内の秀忠の軍勢3万8000であって、それが本戦に間に合わなかったのは痛恨の大誤算だったに違いありません。また本来、家康としては関ヶ原の戦いを徳川勢で戦功を挙げて絶対的政権を握りたかったはずです、ですが秀忠の遅参によりそれは叶わず、福島正則ら外様大名達が主な戦功を挙げる事となった為、その恩賞として大規模な加増を余儀なくされました。

こうした事により家康は、後に作る江戸幕府において中央集権的な体制(語弊はありますが極端に言えば中央政府による全国支配)を断行する事が出来ず、封建制(大名に独立国として各々の領国の支配権を認める体制)を敷かざるを得なくなります。※もっとも家康が中央集権を望んだかどうかはわかりませんが。例え、より大きな勢力を得ていたとしても、中央集権化を強行すれば少なからず反感を買うのは間違いなく、慎重な家康がやっと手に入れた天下に波風を立てるような事をするとは考えにくいところもあります。

また、家康が築いた封建制はそれまでのものとは異なり、大名達に独立した権力を与えつつ、厳しい監視や参勤交代などを行う、中央集権と封建制を組み合わせたようなもので、いわば中央集権的封建制ともいえる体制でした。こうした巧みな統治により江戸幕府は長きにわたって続くことになるのです。

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