【小早川隆景】天文2年(1533年)~慶長2年(1597)享年65歳
小早川隆景は豊臣政権の最高役職である五大老に任じられ、秀吉に「日本の西は小早川隆景に、東は徳川家康に任せれば安泰」と言わしめたほどの人物です。また隆景が死去した際には天才軍師、黒田官兵衛が「これで日本に賢人はいなくなった」と嘆いたともいわれています。
隆景は中国地方の覇者、毛利元就の三男として生まれ(幼名、徳寿丸)、父元就がとった養子縁組戦略により次男の元春は安芸・石見を拠点にしていた吉川家へ、隆景は強力な水軍を持っていた小早川家の養子となり家督を継ぎます。
知略に優れた隆景、武勇に優れた元春は「毛利両川」と呼ばれ、毛利家の発展に大きく貢献しました。ちなみに毛利家の家督を継いだ長男の隆元は、偉大な父と有能な弟達に挟まれ劣等感に苦悩したといわれています。
隆元は父の元就に次のような内容の書状を書いています。「弟たちは吉田郡山(毛利の居城)に来ても長居はせずに自分たちの家の事ばかり考えている。相談事があっても父にだけにして自分には何の相談もない。二人が自分を見下して除け者にしているようで非常に腹が立つ」これを受け元就は「三子教訓状」(兄弟三人で力を合わせ毛利宗家盛り立てていくよう諭した内容)を三人に送っています。
毛利と言えば「三本の矢」の逸話が有名ですが、この逸話は三子教訓状を元に作られた後世の創作といわれています。ちなみに広島を本拠地とするサッカークラブ「サンフレッチェ広島」の名称は三本の矢からきています。「サン」=三、「フレッチェ」=矢(イタリア語)
父や弟たちと比べ地味な印象の隆元ですが、それは彼らの能力が並外れて高かっただけで、決して隆元の能力が低かったわけではありません。また、教養豊かで穏和な人物として知られ、実は財政管理の能力にも非常に長けていました。隆元の死後、毛利家の財政が急激に悪化した事から、弟たちは初めて兄がいかに毛利家に貢献していたかに気付き、敬服したという逸話があります。
戦も調略も外交も全て財力がない事にはどうしようもありません。両川の活躍も全ては隆元の才の上に成り立っていたのです。もっとも隆元自身、自分が毛利家の屋台骨を支えていたという自覚はなかったようで、父や弟たちに対する劣等感から非常にネガティブな性格だったといわれており、「名将の下には不遇な子が生まれる」「私は無能で使えない男である」「父は英傑であるが自分は足元にも及ばない」「毛利家は自分の代で終わりになるに違いない」「自分の命はどうなってもいいから父に長生きして欲しい」といった内容の書状が多く残っています。
隆元の話がつい長くなってしまいましたが話を隆景に戻します。長兄の隆元が41歳の若さで死去し、甥の輝元が毛利の家督を継ぐと、隆景は元春と共にまだ若い輝元の補佐を務めます。主に軍事面は武勇に優れた元春が担当し、政務、外交面は謀神とも呼ばれた父、元就の資質を最も色濃く受け継いだ隆景が担当しました。また、隆景は毛利家の将来を担う輝元の教育係として厳しく接し、時には折檻する事もあったといわれています。
両川体制の活躍により、尼子家、大内家の勢力を一掃した毛利家は中国地方を統一し大大名にのし上がりますが、天正4年(1576年)信長と対立関係にあった第15代将軍、足利義昭が毛利家を頼ってきた事により天下の戦いに巻き込まれる事となります。信長包囲網の中心的存在であった本願寺と信長との戦いにおいて水軍にて本願寺に補給を行っていた毛利軍は信長の水軍と戦い(第一次木津川口合戦)圧勝を収めますが、この戦いに敗れた信長が水軍大将の九鬼嘉隆に鉄で出来た鉄甲船を作らせた事から、2度目の海戦(第二次木津川口合戦)では大敗を喫してしまいます。
その後、上杉謙信の死や本願寺が信長と講和した事などにより信長包囲網が崩壊、信長が秀吉に中国地方制圧を命じた事から、毛利家は苦しい状況に立たされますが、天正10年(1582年)配下の清水宗治救援の為、秀吉軍と対峙した「備中高松城の戦い」の最中に「本能寺の変」で信長が死去した事により、毛利家の運命は大きく変わる事となります。
知らせを受けた秀吉は明智光秀を討つ為、信長死去の事実を隠匿し、急ぎ毛利と和睦を結び畿内へ引き返します(中国大返し)。※ちなみに和睦の条件として清水宗治は切腹させられますが、最後まで毛利家に忠義を尽くし、5000の城兵の助命と引き換えに自ら潔く腹を切った見事な散り際は、秀吉が武士の鑑と感嘆したといわれ、後世にまで語り継がれる事となります。また、切腹が名誉ある死という認識が定着したのもこの出来事が起因といわれています。
和睦後に信長死去の事実を知った元春ら一部の家臣は激怒し、秀吉を追撃する事を主張しましたが、隆景は時流が秀吉にある事を見通し、ここは恩を売っておいて自国を固めるのが先決と説得し、さらに毛利家の旗差物まで貸与し秀吉を手助けしました(※諸説あり)
その後、隆景の読み通り秀吉が光秀を討ち、柴田勝家を破って天下人への道を歩み始めると、毛利家は秀吉に従属して積極的に四国攻めや九州攻めに参加して功績を挙げ秀吉からの信頼を確固たるものにします。隆景の才能を高く評価した秀吉は四国攻めで手に入れた伊予国を隆景に与えて自分直属の独立大名にすると同時に毛利家から引き離し毛利家の弱体を図ろうと画策しますが、隆景は一度毛利家に与えられた伊予を改めて自分が受領するといった形をとって毛利家家臣という立場を貫きました。
さらに秀吉は九州征伐後に伊予から転封で筑前、筑後、肥前の一部、37万石を隆景に与えますが、これにも隆景は毛利一族(毛利家、吉川家、小早川家)は中国地方にすでに八ヵ国を所領しており、これ以上領地が増えると統治は難しく、また、毛利家当主の輝元はまだ若く、元春が病死した事もあり自分が毛利家を離れて九州に移る事は出来ないと再三辞退を申し出ます。しかしこれは認められずやむなく受領する事になります。(自分はあくまで毛利家の家臣であり、この地は秀吉からの預かりとの思いで統治しました)
こうして秀吉の思惑通り、隆景は独立大名として豊臣政権に取り込まれる事とはなりますが、隆景の先見の明により早くから秀吉に与した毛利家は、秀吉に反して所領を大幅に削られた長宗我部家、島津家らとは対照的に9ヵ国112万石(それとは別に隆景37万石、安国寺恵瓊6万石)を領する大大名として豊臣政権における地位を確固たるものとしました。その後も隆景は「小田原征伐」に従軍し秀吉の天下統一に貢献、朝鮮出兵における「碧蹄館の戦い」では立花宗茂と共に明軍を撃退する活躍を見せています。
豊臣政権における重臣としての働きをする一方、隆景は毛利家の事を何よりも大事に考えていました。秀吉が息子のいない輝元に義理の甥、羽柴秀俊(後の小早川秀秋)を養子に出そうとした際にも、毛利家が乗っ取られる事を懸念し、それを阻止しようと動きます。
しかし、ただ断ったのでは秀吉の機嫌を損ね、毛利家の立場が悪くなってしまう事も考えられます。そこで輝元にはすでに従弟の秀元を養子にする事が内定していると告げ、自分にも跡取りがいないので是非とも小早川家の養子として迎え入れたいと願い出ました。そうする事で秀吉の顔を立てつつ毛利家の危機を回避したのです。
文禄4年(1595年)隆景は徳川家康や前田利家といった錚々たる顔ぶれに肩を並べ、豊臣政権の最高役職である五大老に任じられました。その後、秀秋に家督を譲って隠居(その際、秀吉から5万石という破格の隠居料を拝領)、慶長2年(1597年)65年の生涯に幕を閉じました。
隆景の死後、毛利家は二人の甥、毛利秀元(輝元の養子)、吉川広家と外交僧の安国寺恵瓊らが支えていく事となりますが、家中での確執により、かつてのまとまりは失われ、結果的に最盛期には中国地方全域を支配し112万石あった領地をわずか2ヵ国29万8千石にまで減封される事となります。ちなみに小早川家は秀秋の代で断絶しており、いかに隆景の存在が大きかったかを物語っています。もし隆景が健在なら毛利家もこうした末路を辿る事はなかったに違いありません。