【大谷吉継】永禄8年(1565年)~慶長5年(1600年)享年36歳
大谷吉継は越前敦賀を治めた大名で、豊臣秀吉の家臣で石田三成の盟友でもありました。刑部少輔という官職(裁判や監獄の管理、刑罰の執行などを行う、現代の司法省のような役割)を任命されていた事から大谷刑部(おおたに ぎょうぶ)の通称でも呼ばれています。
知勇兼備の名将として知られ、戦場でも内政でも類稀な才能を発揮して秀吉の懐刀として重宝されました。また人柄がよくて義に厚く、戦国を代表する義将としても有名です。ちなみに娘が真田信繁(幸村)に嫁いでおり吉継は信繁の義理の父に当たるので、信繁の生き様にも少なからず影響を与えたものと思われます。
大谷吉継といえば知の部分に目が行きがちですが、戦に関しても秀でており、賤ヶ岳の戦いでは加藤清正、福島正則ら「7本槍」に匹敵する活躍をし「賤ヶ岳先駆衆」と称され、関ヶ原の戦いにおいても小早川秀秋の大軍相手に奮闘を見せています。
吉継の戦の強さは勇猛といった類のものではなく、兵法、采配力にあったものと思われ、秀吉に「100万の兵を与えて、その采配ぶりを見てみたい」と言わしめたエピソードが残っている事などからもその能力の高さがうかがえます。※天正13年の紀州攻めの際には最後まで抵抗を続ける杉本荒法師を槍で一突きにして討ち取ったいう記録も残っているので、あるいは勇猛さをも持ち合わせていたのかもしれません。
大谷吉継の生涯
大谷吉継の出生に関しては諸説あり謎が多い部分もありますが、現在では近江国(滋賀県)の出身で、母親は秀吉の正室(ねね、北政所、高台院)の侍女で東殿と呼ばれた女性であり、父親は六角氏の旧臣、大谷吉房とする説が有力となっています。(幼名、桂松(慶松)・通称、紀之介)
秀吉の小姓として仕え、その才を見出されてからは賤ヶ岳、九州、小田原戦などで活躍。石田三成と共に異例のスピード出世を遂げ、越前敦賀城主として5万7000石を与えられる大名となります。朝鮮出兵の際にも船奉行・軍監として手腕を発揮し、勲功を立てますが、惜しくも病に侵されていた事から政権の中枢から離れていく事になります。
※歴史にifは禁物ですが、もし吉継が病に侵されず出世を続けていたら…そう思わずにはいられません。
関ヶ原の戦いでの大谷吉継
慶長5年(1600年)、家康は上杉景勝に謀反の疑いがあるとして会津討伐を決行。家康とも懇意であった吉継もそれに合流すべく兵を率いて出陣しますが、途中、親友である三成の居城である佐和山城へと立ち寄り、そこで三成から家康に対しての挙兵を持ちかけられます。時勢の流れが家康に向いている事がわかっていた吉継は無謀な戦いであり勝機はないと説得しますが、三成の固い決意を知ると敗戦覚悟で三成に味方する事を決断します。
無謀な戦いと知りながら三成に加勢したのは、友情や恩に報いる為といわれていますが、もしかしたら病の身であるにもかかわらず、そんな自分を頼りにして活躍の場を与えてくれた三成へ対する感謝の意もあったのかもしれません。いずれにしても、義に厚い吉継の人柄がうかがえます
斯くして西軍の首脳陣の一人となった吉継は、居城である敦賀城へ一旦帰還し、東軍に与した前田利長の動きを封じる為、北陸方面の諸大名に勧誘工作を行い多数の大名達を西軍に引き入れる事に成功します。
また、数で勝る前田軍に対して吉継は、利長が留守の間に居城である金沢城を攻める計画があるなど、様々な偽情報を流して動揺させます。不安にかられた前田軍は金沢に向かって撤退を始め、結果、関ヶ原の戦いには参戦出来ずに終わっています。
その後、吉継は脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・戸田勝成・赤座直保らの諸将を率いて関ヶ原へ進軍。関ヶ原へ着陣した吉継は小早川秀秋の裏切りを予期し、秀秋が陣取る松尾山のふもとに布陣します。
関ヶ原の戦いが始まり、当初吉継は東軍の藤堂高虎や京極高知相手に奮戦しますが、途中、予期した通り小早川勢が裏切り、雪崩の如く山を駆け下り突撃してきました。吉継は裏切りに備えて温存していた直属の兵600と戸田勝成、平塚為広の両隊を以てこれを迎撃。
圧倒的な兵力差ながらも数度にわたって秀秋の軍勢を押し返す奮闘を見せます。(※大谷勢の戦いは、目覚しく、それを見ていた島津勢の家臣が残した文書には「比類なき様子に候う」と記されています。)
ところが秀秋の裏切りに呼応して、本来は裏切りに備えて配置していたはずの脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保らまでもが一斉に東軍に寝返ります。これには吉継も為す術がなく、周り中を敵に囲まれた大谷勢は孤軍奮闘するも壊滅。戸田勝成、平塚為広らは討ち死に、吉継は自刃してその生涯を終えます。
打算や裏切りが常の戦国の世において、吉継のような武将は類稀な存在で、最後まで義を貫き通したその生き様は、今にして多くの人を魅了してやみません。
大谷吉継 辞世の句
「契りあらば六つの巷に待てしばしおくれ先立つたがひありとも」(縁があれば、あの世の入口でしばらく待っていてくれ。遅かれ早かれ、私もそこへ行くだろうから)
この句は、盟友、平塚為広が吉継に送った辞世の句「君がため棄つる命は惜しからじ終にとまらぬ浮世と思へば」(君のためになら、命を捨てることは惜しくない。永遠に生きられる世の中でもないのだから)に対しての返句となっています。
大谷吉継の名言
「大将の要害は徳にあり。徳あるところ、天下これに帰す。」
石田三成が居城である佐和山城を堅固な城に改修しようとした際に吉継がかけた言葉と言われており「どれだけ堅固な城を築いても本当の要害とは目に見えるものではなく大将の持つ人望であり、人望のあるところに天下は回ってくるのだ。」といった意味合いの言葉です。
「金のみで人は動くにあらず」
三成から家康に対しての挙兵を持ちかけられた時に吉継は「お主は利に聡く、それ故、太閤(秀吉)に重宝されたが人は利によってのみ動くものではない。その人の持つ人望と器量によって動くものだ。その点においてお主は家康に遠く及ぶまい。」と述べて三成を諭したと伝わります。
大谷吉継に関わるエピソード
【幼名の由来】
子供が出来ない事に悩んでいた吉継の両親が神社へ参詣した際に、夢で「神社の松の実を食べよ」とお告げを受け、神社に落ちていた松の実を食べたところ吉継が生まれた事から「慶松」と名付けたと言い伝えられています。
【吉継の病気】
大谷吉継は病により崩れた顔を隠す為、白い頭巾を被っていたと伝えられています。(※諸説あり)吉継の病気は、らい病(ハンセン病)であったというのが通説で、当時は不治の伝染病として忌み嫌われていました。関ヶ原の戦いの頃には視力も失い、輿に乗って采配を振るったとされています。
・大阪千人斬り事件
天正14年(1586年)、大坂城下で毎夜、人が斬り殺される事件が多発しました。下手人が千人斬りを目標としているという証言があった事から「千人斬り事件」と呼ばれ、千人の生き血を舐めると病が治るという流言があった為、吉継が犯人との噂が流れました。結局犯人は全く別の人物でしたが、このような噂が流れた根因には、原因不明の病に対する嫌悪感や、秀吉に重用される吉継への妬みがあったのではないかと思われます。
いずれにせよ、このような噂が立った際にも、三成と秀吉は吉継を信じ、咎めもなく、全く態度を変える事なく接したと伝わりますので、吉継との絆の深さを感じます。
【石田三成との友情】
吉継と三成は同じ近江(現在の滋賀県)出身で共に若い頃から秀吉に仕え、年齢も近く、また、共に計数の才にも長けていた為、とても懇意の仲でした。
・茶会での逸話
吉継と三成の友情を語る際には茶会での逸話はかかせません。大坂城である茶会が催された時の出来事です。当時はお茶を一口飲んで次の人に回すという作法がありましたが、吉継が茶を飲んだ際に、病で崩れた顔から膿が垂れ落ち茶碗の中に入ってしまいます。
それを見た諸将は気味悪がって、茶を飲むふりをして回していきました。吉継の心中やいかばかりであったでしょうか。ところがそんな中、三成はそれを一気に飲み干し「あまりに旨いので全部飲んでしまった。もう一服点てて頂きたい」と言い放ったのです。
この逸話については垂れ落ちたのは鼻水であったとか、茶を飲んだのは秀吉だったなどの説もあり、また、出典がはっきりとしていない為、真偽の程は不明ですが、二人の固い友情のエピソードとして今日に伝わっています。
・歯に衣着せぬ物言い
三成から家康に対しての挙兵を打ち明けられた際に吉継は「家康とは格も戦の経験も比較にならず無謀すぎる」「お主は知恵においては天下に並ぶ者はいないが勇気と決断力に欠ける」「人望がないから人はついてこない」など、辛辣な物言いをしたといわれています。
仲が良いとはいえ、中々ここまでハッキリと言えるものではありません。真の友情、真に三成の身を案じていたからこそ言えた言葉だと思います。しかしそれでも三成の決意が変わらない事が分かると吉継は、分が悪い戦いと知りながらも最終的には三成と道を同じくする事を選ぶのです。
【吉継は秀吉の隠し子だった!?】
吉継の母は秀吉の正室、北政所の侍女であったといわれており、秀吉の身近にいた人物であった事。吉継が異例の出世を遂げ、病に冒された後も秀吉が自らが訪問するなど重用されていた事などから吉継は秀吉の隠し子だったとする説もあります。名前も秀吉の吉からきたもので、秀吉を継ぐというわけです。
こじつけ的な部分も多く全くの俗説というのが一般的な考え方で、個人的にもさすがにそれはないかと思いますが、ただ、吉継が秀吉の子だと考えると「大阪千人斬り事件」の際に秀吉が吉継を咎めなかった理由や、「茶会での逸話(※茶を飲んだのが秀吉だった場合)」も辻褄があってしっくりきます。
また、関ヶ原の戦いも、秀吉の実子が豊臣家の存亡をかけて最も壮絶な戦いを繰り広げたという事になるので、そう考えると感慨深いものがあります。
【2つの家紋】
吉継の家紋といえば「対い蝶紋」が有名ですが、実はもう1つ家紋があります。「鷹の羽紋」という家紋で、文字通り鷹の羽をモチーフとしており、勇敢さの象徴として多くの武人に好まれ使われていました。元々吉継はこの「鷹の羽紋」を使用していましたが、刑部少輔の官職に就任した頃から「対い蝶紋」に変更しています。(※蝶紋は平家一門が活用していた紋として有名で、吉継は平氏の流れを汲んでいたとの説もあります)
ところが、関ヶ原の戦いにおいて吉継は対い蝶紋ではなく鷹の羽紋を掲げ挑んでいます。その理由は不明確ではありますが、関ヶ原の戦いに向けて勇敢に戦いたいという吉継の意思の表れであったのではないかと思われます。
当時、吉継の病状はかなり悪化しており、視力をほとんど失い、体の自由もままならず輿に乗って采配を振るったといわれています。こういった状況の中、鷹の羽紋を使用する事で自身を奮い立たせたのではないかと感じます。
【吉継の呪い】
吉継は自害の際に、裏切った小早川秀秋の陣に向かって「人面獣心なり。三年の間に祟りをなさん。」と言い放ったと言われており、実際、秀秋は関ヶ原の戦いより2年後に21歳の若さで急死しています。現代では死因はアルコール依存症による内臓疾患が原因と考えられていますが、当時の人々は吉継に呪い殺されたと噂しました。
【湯浅五助と藤堂高刑】
吉継は自害の際、家臣の湯浅五助に病で崩れた顔を敵に晒さぬよう命じたといわれています。五助は主君の命を守り吉継の首を戦場より離れた場所に埋めて隠しましたが、そこを敵将の藤堂高刑(藤堂高虎の甥)に見つかってしまいます。五助は自分の首と引き換えに主君の首の事は見逃して欲しいと懇願し、高刑はそれを承諾します。
その後、五助の首を持ち帰った高刑は家康から手柄を称えられ、それと同時に吉継の首についても詰問されますが、高刑は五助との約束がある故答えられないので自分を処罰するよう求めます。吉継の首の在処を言えば大手柄になるものを約束を守る律儀さに家康は感心し、高刑を咎める事なく自分の槍と刀を与えたと伝わります。真相の程は定かではありませんが、五助の忠義、高刑の律儀さ、そして家康の寛大さがうかがえる逸話です。
関ヶ原の山中にある吉継の墓は、関ヶ原での吉継の奮闘と五助の忠義に感銘を受けた藤堂高虎が建てたといわれています。その隣には後に子孫によって建てられた五助の墓もあり、今でも二人を偲び多くの人がお参りに訪れています。