第二次上田合戦は、中山道を通って関ヶ原に向かう徳川秀忠の軍勢3万8000と上田城に約3000の兵を以て籠城した真田親子(昌幸、信繁※幸村)との戦いです。
9月2日、圧倒的に数で勝る秀忠は、まず昌幸に対して降伏勧告の使者を送ります。これに対して昌幸は降伏の意を示し「城を開け渡す準備があるのでしばらく時間が欲しい」と返答し秀忠もそれを承諾します。ところがこれは少しでも長く秀忠を足止めする為の時間稼ぎで、4日になって昌幸は態度を急変させ秀忠に対して挑発的な態度をとった為、これに激怒した秀忠は上田城攻めを決定、5日、上田城の支城、砥石城攻略に秀忠に従軍していた真田信幸をあたらせます。
砥石城は弟である信繁が守りを固めていましたが、攻めてくるのが信幸の軍勢だと知ると城を破棄して戦わずして撤退します。※これについては、同家での戦いを回避する為、身内が西軍に味方した事で肩身の狭い思いをしている信幸に手柄を立てさせる為、敵を油断させ敵を誘い込む為、などといった理由が考えられています。
砥石城を手に入れた秀忠は6日、上田城下の稲を刈り取り真田勢を挑発します。これを見た昌幸はそれを阻止すべく軍勢を出撃させますが反撃にあって敗走。ここぞとばかりに徳川勢は追撃を加えますが、これは上田城に敵を引き付ける昌幸の策略で、城門近くまで接近した徳川勢は鉄砲や弓の一斉射撃を浴びて大混乱に陥る事になります。
その後も、昌幸は地の利を生かして伏兵や奇襲を仕掛け、秀忠は小諸城まで撤退を余儀なくされます。8日、家康より早急に進軍し合流するよう書状が届いた為、秀忠は上田城攻略を諦め関ヶ原に向かう事になりますが、7日間も上田城に足止めされた事により関ヶ原の戦いに間に合わないという大失態を演じてしまいます。秀忠の遅参に家康は激怒し、到着してもしばらくは面会を許さなかったともいわれています。
※これらについては諸説あり、刈田により小競り合いがあったということ以外は、はっきりした資料が残っていない為、大規模な戦いは行われなかったともいわれています。また、秀忠の遅参の理由についても、元々秀忠は上田城を攻略した後に関ヶ原へ向かうよう指示されており、上田城での戦いは予定通りだったともいわれています。
ところが、岐阜城が予想以上に早く落城した為、家康に計画を早める必要が生じます。そこで家康は8月29日に急遽、秀忠に予定を変更し急ぎ自軍に合流するよう書状を送りまが、悪天候の影響により使者が遅れ、書状が秀忠の元に届いたのは9月8日でした。(通常なら2、3日で到着するところが10日もかかってしまっています。)
書状を受け取った秀忠は上田城の備えに兵を残し、急ぎ家康に合流すべく、進軍しますが、これまた悪天候と川の増水で行軍が思うようにいかず、関ヶ原の戦いに間に合わなかったといいます。こうした秀忠の遅参は急な作戦変更と悪天候によるものといった説は、多くの書状等が残っている事から有力だと考えられ不運だったともいえますが、上田城攻防戦の大小や、指示変更、悪天候の影響等とは関係なく、秀忠が早々に上田城を落として関ヶ原に向かっていれば、あるいは決戦に間に合っていた可能性もあるので、やはり上田城での足止めには意義があったように思われます。
家康が最も恐れた男
真田といえば一般的には「日本一の兵」(ひのもといちのつわもの)と評され、高い人気を誇る信繁(幸村)を思い浮かべる方も多いかとは思いますが、家康が恐れたのは父、昌幸の方だったといわれています。
家康が最も恐れたのは誰かという話題になると、織田信長、武田信玄、豊臣秀吉、伊達政宗といった錚々たる顔ぶれに並んで必ず昌幸の名前も挙がり、実際、家康は上田合戦において二度に渡って煮え湯を飲まされています。
家康は生涯で75回近くもの戦いを行っていますが(家康が直接指揮をとっていないものも含め)、そのうち負けたのはわずか10回程度で、その数少ない敗北の中に昌幸との戦いが入っている事からも昌幸を恐れていたといっても過言ではないと思われます。
※もっとも、その敗北の内の実に7敗が武田家(信玄6、勝頼1)によるもので、特に信玄には一回も勝てていないので、戦においていえば一番家康が恐れたのは信玄といえるかもしれませんが。(※戦績については戦の規模や勝敗のライン引きが難しいので諸説あり)
家康と信玄の戦の中に、家康の生涯で最大の負け戦といわれる「三方原の戦い」(※敗走中、恐怖のあまり脱糞した家康が家臣にこれは味噌だと誤魔化した。※敗戦の戒めとして憔悴しきった顔の自画像を書かせた。といった逸話が残るほどの大敗)がありますが、これには当時、信玄の家臣であった昌幸も参戦しており興味深いものがあります。
家康がどれだけ昌幸を恐れていたかが窺がえる逸話が残っています。大坂冬の陣で信繁が大阪城に入城した際に、真田が大坂城に入ったという報を聞いた家康は「それは父親(昌幸)の方か?息子(信繁)の方か?」と尋ね、それが信繁の方だとわかると胸を撫で下ろしたといいます。(もっとも、後に、その息子の方に家康は自害を覚悟する程の思いをさせられる事になるのですが)
こうして親子二代にわたって家康を恐れさせた真田家は、家康の天敵ともいえる存在だったといっても過言ではないでしょう。