細川ガラシャの悲劇

関ヶ原の戦い

細川ガラシャ(明智 玉)は明智光秀の三女として産まれました。幼い頃より聡明で美しかったといわれ、15歳で名門細川家の嫡男、細川忠興に嫁ぎます。夫婦仲も良く子宝にも恵まれましたが「本能寺の変」で父、光秀が信長を討った事で逆臣の娘となってしまいます。忠興は細川家に嫌疑がかからないよう玉と離縁し、丹後の味土野(現在の京都府北部)に幽閉しました。※これは表向きの事であって、どこにも行く当てのない玉を匿ったものとも考えられます。

2年の隠棲生活を送った後、秀吉の取り成しもあって玉は幽閉から解放され忠興と復縁、細川家の大阪屋敷に移りますが、常に監視下におかれた生活を余儀なくされます。こうした生活に辟易したのか、忠興がキリシタン大名、高山右近から聞いたキリスト教の話をすると、その教えに心を魅かれていくようになります。

侍女たちを教会に行かせてキリスト教の洗礼を受けさせ、やがて玉自身も洗礼を受けてガラシャの洗礼名を得る事となりますが、当時、バテレン追放令によりキリスト教の布教は禁止されていた事もあり、それを知った忠興は激怒しそれを棄教させようとしましたが、ガラシャは頑として聞き入れませんでした。※一説によれば忠興は洗礼を受けた侍女達の鼻や耳をそぎ玉に改宗を迫ったともいわれています。

こうした事もあり、その後、忠興は5人の側室を持つなど、ガラシャに対して辛く接するようになります。ガラシャは夫と離縁したいと宣教師に相談をしますが、キリスト教では離婚は認められない為、それは叶いませんでした。

慶長5年(1600年)家康が会津討伐に向かった隙をついて石田三成が挙兵、「関ヶ原の戦い」が起こります。三成は大坂にいる東軍の諸大名の妻子を人質に取り戦意を削ぐ作戦を実行、ガラシャのもとにも人質の使者を送りますがガラシャが拒絶した為、実力行使に出て屋敷の周りを兵に囲ませました。

それを受けてガラシャは屋敷内の侍女達を逃がすと、自身は自害の道を選び、数奇な人生に幕を下ろします。(享年37)※キリストの教えでは自殺は禁止されている為、家老の小笠原秀清が、ガラシャの胸を刀で突いて介錯し、遺体が敵の目に晒されないよう屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて、自らも他の家臣らと共に自刃したといわれています。(※諸説あり)

細川ガラシャの件があって以後、その凄惨さや逆効果になるおそれ等も考慮され人質作戦は取りやめられる事となります。

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