五大老の一人で、関ヶ原では副大将として17,000人という西軍最大の軍勢を率いて主力として戦った宇喜多秀家でしたが、実はその多くが浪人(牢人)達で編成された寄せ集めの軍勢でした。
なぜそのような事態になったかについてですが、関ヶ原の戦いの直前に宇喜多家では「宇喜多騒動」と呼ばれる家中を二分する大きな内紛が勃発しており、それにより多くの戦経験の豊富な重臣達が秀家の元を去り、宇喜多家の戦力が大幅に弱体化してしまったのです。
秀家はその穴を埋めるべく多くの浪人(牢人)達を雇い入れ、戦力増強を図りますが、数は多くても統率が取れていない寄せ集めの軍勢では兵数が表すほどの働きは出来なかったと伝わります。
宇喜多騒動
それまで宇喜多家は譜代家臣による集団指導体制(権力を分有する体制)をを取ってきましたが、秀家は当主を中心とした権力体制へと変革を行い、人事についても大幅な変更がありました。
その事により解任された重臣を中心とした秀家の強引な施策に不満を持つ家臣達との間に確執が生じます。中でも新参者である中村次郎兵衛の重用を快く思わない元重臣の戸川達安、岡貞綱らは秀家に次郎兵衛の処分を訴えますが、秀家がこれを拒否した事から大坂の屋敷を占拠するといった事態にまで発展します。
秀家はこの騒動の首謀者を戸川達安としてその暗殺を謀りますが、今度は秀家と対立していた従兄弟の宇喜多詮家(のちの坂崎直盛)が達安を庇って自邸へ立て籠もり、両者は一触即発の泥沼化状態となってしまいます。
この騒動を調停すべく大谷吉継と榊原康政が動きますが、それでも騒動は収まらず最終的には家康が仲裁を行う事でようやく事態は沈静化する運びとなります。
ですがこの騒動により、それまで宇喜多家を支えてきた戸川達安、岡貞綱、花房正成、宇喜多詮家など多くの重臣達が宇喜多家を去り、宇喜多家は衰退の一途をたどる事となります。
戸川達安、岡貞綱、宇喜多詮家(後に宇喜多の名を嫌う家康の命により坂崎直盛と改名)は家康の家臣となり、達安、詮家は関ヶ原の戦いにも東軍として参戦しています。特に達安は戦功をあげ、一説によれば石田三成の重臣、島左近(清興)を討ち取ったともいわれており(※諸説あり)、その際に持ち帰ったとされる左近の兜が静岡の久能山東照宮博物館に収蔵されています。